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「生き方の達人」たち

修羅をくぐって我が道を行く


やさしく生きるのも、強く生きるのも、
人それぞれだが、どんな不幸にもめげない
明るさ・強さは貴重である。
眼を一つつぶされても
絵心を捨てなかった絵描きさんの話

円つぶら


「小説 宝石」より

***1***

ノスタルジア

’98年7月、五十五歳になった番洋はスペインに飛んだ。
「国際芸術グランプリ・スペイン巡回展」(於トレド&ドン・キホーテ古城館)に むけて出品した作品が受賞した。その授賞式に臨むための旅である。
番洋作『俺は王様』(油彩30号)は、じつに「ドン・キホーテ特別賞」に輝いていた。
ここ数年、番洋はマグマが噴出するように、制作にはげんできた。
フランス国際美術大賞展グランプリ3位を皮切りに、 ベルギー国際現代芸術アカデミー展に三年連続入賞、 サロン・ド・プランタン(フランス)金賞等々、並べきれないほどの受賞 や招待出品の名誉を獲得してきた。
 それらの受賞通知と、賞状や記念品などは、 これまで日本で居ながらにしていただいてきた。
 外国での授賞式に自から出かけて行くのは、これが初めてのことなのである。
 「さて、なにを着るかな」と、事前に思案めぐらした。
 モーニング?紋付に袴?そんなセレモニー用の衣装なんて、照れくさい。 柄にあわないし、似合いもしない。まるで猿芝居の扮装みたいじゃないか。
 思案のあげく、身になじんだ普段の仕事着スタイルのままを、正装らしく新調することにしたのだった。
さて当日、トレドの市庁舎内の会場に、番洋は一人堂々とのりこんだ。
 大柄な日本人であって、その特異な風貌と異色の装いがあいまって一瞬、”オドロキ”の波が会場にひろがった。でも、ぴたっとキメた特殊な個性、ふしぎな持ち味に、 出席の人々は興味と好感をよせたようだ。
 番洋の多すぎるほどの髪が、真ん中割れに流れて両頬から肩先まで、 ふっさり黒々と覆っている。ベタ黒のサングラスに隠れて、眼は透しみえない。
 そして全身は白一色に、白地の作務衣をまとって、白の鼻緒の桐下駄をはいていた。
コンポジション97  一見、強面だけれど笑えば、とたんに邪気のない笑顔となる。押しが強く、アクが強くとも、ひとなつっこいふうに、するりと相手の胸ふところに入りこんでしまうのも番の持ち味だ。
 会場に飾られた『俺は王様』は目玉の受賞作として、やはり人だかりしていた。
 その絵は、抽象と具象が渾然一体に溶けあったような、”番洋流”である。
 赤や青に白・・・・・・などなど、多彩な色づかいで織りなす”面と線”のフォルムを成したものをバックとして、黒っぽい人物像が描かれている。どうやら王冠をかぶった、 子どもじみた王様像だ、とうかがえる。 イメージの喚起もせまられて、いくらかメルヘンチックな詩情を、訴えかけてくるかにみえる。
 「セニョール・バン」と、そこかしこから呼びかけられる。握手をもとめられる。
 番という名も、おもわぬことに幸いした。外国人にとって、ややこしくて舌噛みそうな日本人名とはちがう。「バンだ、バンだ」と、口にしやすそうに憶えてくれた。
 作務衣にも、いたく興味をもたれた。
 「それ、着たい。ぜひ手に入れたい」
 などと妙なオマケに、番洋は買物をたのまれるハメになってしまう。
 スペインには、充電の休暇も兼ねて、一ヶ月滞在する気であった。
 もはや洋は、Tシャツとジーパン姿となって、なにごとも貧欲に吸収しようとする。
 まずは、”プラド美術館の制覇”を目ざす。毎日、開館時から通いつめだした。
 なにしろ、絵画だけでも八千余点という、ぼう大な物量を相手にせねばならない。陣地取りの気で、 スペイン絵画部、イタリア絵画部・・・・・・と、国ごとの部門を攻略してゆく。
 三日間も通えば、すっかりチケット係にも顔を憶えられる。 それが四日めとなると、手マネで「そのまま入れ」と、見送ってくれた。
 ふとっちょのオバサンのご好意もありがたい。それからの日々、無料で入館しつづけられた。
 一週間めで、ようやくケリがつく。さしもの物量も、一週間がかりで攻略しつくしたのだ。
 <やったな。プラド制覇、完了だぜ>
 フーッと息をついて、洋は歩きだす。
 目標達成の満足感、快い疲労感を曳きながら、カーバス・デル・カスティーリョ広場を分け入ってゆく。
 ネプチューン像の噴水に近づいて、足を停める。美術館への往き来を見守ってくれた、この海神からも「よくガンバッたね」とねぎらいかけられたようで、精勤の酬われた想いがする。

 だいたい洋は、目標を高くかかげると、手にあまる至難な業でもかまわず、挑みだすヘキがある。「絶対、○○してみせる」とおもい決すれば、つき進むばかり。人一倍の負けず嫌いの、意気地に支えられている。
追憶  前身は警察官で、剣道と柔道の猛者で鳴らした男なのだ。
 芸大だの美大だの・・・・・・と、正規な美術専攻の教育は、これっぽっちも受けていない。
生前の宮本三郎画伯を師と仰いだものの、ほとんど独修でたどった絵画の途だった。
 また骨とうの世界にも踏み入って、はやり独修で”目利き”に達するまでになっていた。
 なんと、警察官が画家に転身しただと?
 骨とうの鑑定もできるだって?
番洋の意外な履歴をきいて、たいていのひとは愕ろき、唖然とする。
 ことに骨とうの鑑定眼が、たやすく得られるわけもない。 どうやって会得したのか、といぶかり怪しむ眼をむけてくる。
 「そら、月謝はらったわ。億の金、費ったさ」
 こともなげに、洋は言い返してやる。
 煙に巻かれて、相手はとまどう。
 でも、「億の金」というなら、その金の出処は?と、新たな疑惑を泛かべだす。
 「大言壮語する」と、うけとられもした。
 洋が結果論だけふり回せば、そうなる。
 言葉にウソはないけれど、一切の過程ヌキに語っては、相手に不可解な謎を残させる。いや、業界の知る人ぞ知る・・・・・・である。
 <それにしても、”ドン・キホーテ特別賞”はよかったな。おれを皮肉る賞みたいだぜ>
 この期に、そう感じて、洋はおかしくなる。
 本格的に美術展にむけの制作にとり組みだしたきっかけも、ラチもない話にはじまったのだった。
 大阪に住みついて十年余り経った頃だ。自宅の近所にも洋の行きつけの店がある。 常連どうし、おたがい身もとが知れて、酒の上での遠慮ない口をききあう。
 「絵描きなら、日展にでも入選せな大きな顔ならんやろ」
 「そうそう、美術年鑑や美術名典にかて、名前と絵の値段が載せられるようになりや」
 ときに、悪気はないが、手きびしいヤジのツブテが、周りから飛んでくる。
 「絵のわからん奴ら、きいたふうな口きくな」
 洋はすかさず、いなしてみせるのだが。
 なんとも素人衆の、こまった言葉はどうしようもない。
 絵の真価より「賞」の評価で、画家の格づけをする。年鑑などに、リストの一員として登録されることが、画家として世間に「認知された証拠」だと、 生半可におもいこんでいる。なまじ”絵描き”と親しめば、知ったかぶりの情報も仕入れてくる、近所雀らのお節介であった。
 すでに洋は、プロの画家としてたつ身の、自負がある。いまさら展覧会に、応募する気はなかった。
 美術年鑑やら、美術名典だとか。それらは、いわば自己申告による画家名乗り。 料金はらえばOKとなる、三行広告なみのものじゃないか。 そんなものに、登録する気はなかった。

彷徨

 彼らは、内情知らず。大いなる誤解、とんでもない錯覚だ。
 <よし。誤解も錯覚も、ふっとばしてやる。賞なら賞で、獲得してやろうじゃないか>
 にわかに居なおり、洋は奮いたった。
 彼らが納得のゆく「日展」に的を絞ろうとする。そのとき突如、ヒラメキが脳裡を射した。
 そうだ。 なにも日本だけの”賞ねらい”に絞ることはない。 世界じゅうの公募展に、扉は開かれているだろうに。
 いっそ海外に、打ってでるか。
 ならば、デッカく賭けて「フランス国際美術大賞展」に、勝負といこう。
 いやはや、「日展」を越えて、さらに権威や歴史があるという「フランス国際美術大賞展」に、いきなり挑戦したのだ。
 もっとも、公募ということ自体が初めてなのだ。”力試し”の気分でかかる。 「まあ、入選ぐらい大丈夫かな」と踏めるほどの自信でしかない。
 その時点では、さすがに「受賞する」という事態を、考えもしなかった。
 ところが、即、受賞した。応募したのっけから『グランプリ3位』の受賞となった。
 「おやおや、一発で獲得だ」と、番洋自身が面くらいながら、賞に飾られたデビューをはたした 。’94年のことであった。
 それからはもう、本気になって出品作の制作に没頭しだした。
諸外国の美術展を的にして、華ばなしい受賞歴をかさねてきた。
 「無審査招待」の出品依頼も舞い込めば、 「ニース名誉市民」の称号を贈られたりする。
 <おれの絵、プラド美術館に納まるかな。まさか、そりゃない話。夢想妄想だよ>
 頭をふって、洋はにが笑いする。
 あのプラド美術館に、一日本人画家が、大むこうを張るだって? それこそ、風車にたちむかうドン・キホーテみたいだ。 いやいや、大成した番洋の、将来は知れないけれど。
 <うん。ドン・キホーテをテーマにするのは、どうだ。 ラ・マンチャをたどる旅もいいぜ>
”賞のお返し”のように、洋はおもいつく。
 明日の目標はまま勝手、風まかせ足まかせの旅もいい。
 だが、失明した右眼には、なんの形も影も映してはいない。 ただ光線だけに、敏感すぎるほどに反応する。いたくマブしく感じる。サングラスをはなせない。
 せめて左眼が活かされて、すくわれた。
 両眼を失なえば、画家の命は断たれたはずなのだから。
 かつて、”生と死”の瀬戸ぎわにたたされた。身心もろとも修羅をくぐって、 はいあがってきた。華ばなしい受賞歴とみえる蔭に、修羅を経てきた、過去を潜ませている。
 番洋は、まさに「隻眼の画家」であった。半減した視力をかざして、画の途をゆく・・・・・・。


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